只見町河井継之助記念館
米百俵
河井継之助について
河井継之助は名を秋義と云い,蒼龍窟と号した。越後長岡藩に生まれ幼児より聡明にして豪胆,神童と云われた。文武に秀で陽明学を修め,水練,馬術,槍術に長じ特に砲術の研究を深めた。
27歳のとき,江戸に学び斎藤拙堂、古賀茶溪に師事するとともに福地源一郎らとの交流を深め,佐久間象山の門をたたくなど勉学に励んだ。
その後一時帰国して藩政に参与するが,安政五年(1858年)ふたたび江戸に赴き,さらに備中松山の山田方谷の教えを受け,横浜,長崎などに遊学して広く世界の動きを見聞した。
文久二年(1862年)八月,藩主牧野忠恭が京都所司代および幕府老中となったときには,内外の情勢を説いて献言したが入れられなかった。
慶応元年(1865年)39歳の時,郡奉行となりその非凡な才能は多くの人の注目を集めた。
その後,御番頭,町奉行,御年寄役を歴任し同四年には家老上席となり政務を担当した。継之助はこの間大いに藩政を改革し,藩財政を確立するとともに兵制を改革するなど長岡藩をして奥羽の雄藩としての基礎を作り上げた。
只見町が終えんの地となった
慶応四年(1868年)正月,鳥羽伏見の戦いで始まった戌辰戦争は,関東,東北,越後に拡大されていった。朝敵の汚名を受けた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。
継之助は事を平和の裡に解決しようと東奔西走し,小地谷にかまえた西軍の軍監岩村精一郎と慈眼寺において談判したが決裂し,ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り,さらに奥羽越の諸藩同盟を結成,その監督として善戦したが5月長岡城が落ち,その後7月25日の戦いで傷ついた。
継之助は,親藩会津に逃れ再起をはかるため,千数百名とともに八十里越を会津に向かった。山越は難渋を極め,山中に一泊して8月5日只見につき,傷の手当てを受けた。
8月12日幕府医師,松本良順のすすめで会津若松に向けて出発,途中塩沢,矢沢宗益宅に投宿した。
継之助は,すでに死期を予感し,従者松蔵に死期の準備を命じ,その夜静かな眠りに入った。
時に慶応四年(1868年)8月16日であった。
話題の米百俵、小林虎三郎は、河井継之助より一歳年少で遠縁にあたる人物である。今、改めて脚光をあびています。
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河井継之助の墓
河井継之助がダビに附された後,遺骨は長岡に送られ長岡市内栄涼寺に葬られた。塩沢医王寺の墓所は,ダビの後で拾い残された細骨を村民が集めて建てたものである。
当時官軍の目が光っていたため,文字は刻まず,形式も祠の様式にして官軍の目をごまかすという細かい配慮がはらわれていた。
現在の墓は,昭和12年(1937年)一部補修され,昭和53年(1978年)7月長岡市の篤志家により再補修し整備されたものである。昭和58年4月1日,只見町の史跡に指定されている。
毎年8月16日塩沢医王寺で墓前祭がおこなわれる。
塩沢について
塩沢は,新編会津風土記(1809年)に「村中に塩の井戸があり,村名の由来となった」とあるとおり,塩の生産地としても有名である。伝説によると,弘法大師が塩がなくて困っている村民を見て,錫杖をつき塩の井戸をつくったという。
塩沢地区は,戦後始まった只見川電源開発によって下流に滝ダムが建設されることになり,昭和36年(1961年)人家と耕作地の多くが水没した。河井継之助の終えん家は、この折,現在地に移転されたものである。
司馬遼太郎は,昭和49年(1974年)ここを訪れ,風光明媚な塩沢が継之助の眠る地にもっともふさわしいところであるとして「山水相応蒼龍窟」という揮毫を残している。
ガトリング砲について
ガトリング砲とは,1862年米国人リチャード・ガトリングが南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で,1分間に200発もの弾丸を発射できる当時最強の兵器であった。
継之助は,日本に3門しかなかったガトリング砲を武器商人スネルから2門1万両で購入した。長岡上攻防戦では,継之助自ら射手として西軍に対し,大手門の土手を盾に乱射したと伝えられている。
河井継之助記念館所蔵のガトリング砲は,当時使用された機種(1868年型)をもっとも忠実に再現したものである。
入館料金 [大人]300円(250円) [小・中学生]100円(80円)
( )内、団体割引後料金
[団体割引]20名様以上
開館期間 毎年4月下旬から11月まで。
開館時間 午前10時から午後4時まで。
休館日 木曜日
河井継之助墓前祭 8.16 | 終焉の地 只見町塩沢 |
河井継之助墓前祭 記念館内 | 医王寺境内 |
場
所
塩沢地区
お問い合わせ先
968-0411福島県南会津郡只見町塩沢字上の台850-5
河井継之助記念館 TEL0241-82-2870