長岡と河井継之助
高校生活は、長岡高校でした。
ここでは、その思い出を一つだけ書くことにいたします。
今はない古い講堂の両側に、2枚の人物像が掲げてありました。河井継之助と山本五十六です。高校当時には、河井継之助という人間を理解しようなどとも思いませんでした。相当に鈍感でありました。ところが、大学院の時期に、この蒼龍窟に関する文章にふれ俄然と興味を抱き始めたのです。その後、司馬遼太郎の『峠』などもしるされ、俄かに蒼龍窟も人気者となりました。
子どもを連れて奥会津の只見町にある墓にも行きましたし、彼の末期を看取った医師が矢沢であるとの誼で、さらに興味も持ちました。江戸末期の混乱期に、中立の立場を模索する卓絶した人間でありました。
蒼龍窟は継之助の号です。今泉さんと司馬さんは”邸内の松樹”を由来としていますが、禅にはに、次のような記述があります。
『為君幾下蒼龍窟』(君が為に幾たびか下る蒼龍の窟)