藤本事件
  
                         専修大学法科大学院教授 弁護士 矢澤曻治

 今日のシンポジウムの主催者でありますが、庭山先生、伊佐先生には、原稿にしたものを求めていながら、私は、お話しする内容をまだ原稿状態にしておりません。これからは、ハンセン氏病に罹患したとして、藤本松夫氏を冤罪者にして死刑台に送ったいわゆる藤本事件を取り上げ、私の個人的な関わりの中でこの事件についてお話したいと考えております。
 
 1 熊本大学法学部に赴任の頃
 ほぼ30年前(1978)、私は熊本大学法学部に赴任しておりました。しかし、不勉強なことに、これからお話をする藤本事件については全く知りませんでした。情けないことです。この事件に関連があることと言えば、大学の周辺の散歩コースにある細川家廟所の手前にある小峰墓地、ここには、ラフカデオ・ハーン、日本名小泉八雲の墓がありました。また、ハンナ・リデルとエダ・ライトの墓もあり、表示もありました。散歩で知りえたことは、キリスト教布教のために来日したイギリス人、ハンナ・リデルがハンセン氏病患者の救済をし、その死後姪のエダ・ライトがその後を継いだという事だけでした。当時、ハンセン氏病のことにも詳しい知識も教養も関心もないわが身の話しです。弁明するわけではありませんが、当時、肥後の国熊本は、いろいろの余りにも大きなことが起きておりました。わが国の4大公害訴訟の一つである水俣病、そして、いわゆる免田事件の再審運動が行われていたのです。

 2 砂の器
 皆様は、「砂の器」をご存じであろうと思います。私も、松本清張のファンであり、小説「砂の器」を読み、そして、映画化されたものそれには明確な記憶があります。加藤剛の子役(どなたかはしりません)とその父千代吉を演ずる加藤嘉(よし)が乞食をしながら、出雲地方の山村(亀嵩)を通ります。その村の子供達から石をぶつけられ、逃げる姿が心に焼き付いております。ライ病に罹患して隔離されるを逃れるためであったのか、通行する村から追い立てられたのかは分かりませんが、当時におけるハンセン氏病患者の置かれた立場を如実に示す場面であったわけです。その後、千代吉の息子が、戦争のどさくさを利用し、戦災死した夫婦の戸籍を作り直して、和賀英良と名乗り、天才音楽家となります。そして、その檜舞台で自分の逃れられない人生を『宿命』という交響曲の披露する日に、自分の素性を知る忌まわしい恩人元三木巡査を殺した件で逮捕状が執行されるという趣旨のドラマでした。その時ですら、私はいまだ漠然としており、ハンセン氏病の処遇などにおもいすることなどはなかったのです。

 3 冬の仙台と松山事件
 真に言い訳けがましいのですが別のお話をいたします。私は、熊本大学に赴任するする前、仙台で大学院時代を過ごしました。ある雪の降る冬の頃、研究室から北門から真っすぐ町に出ると南町、そこに地元の藤崎というデパートがあるのです。その玄関の前で、一人の女性が訴えていました。通る度に、多分毎日のように。募金のためのザルを置いてありました。実は、この前亡くなられた、松山事件の斉藤幸夫さんのお母さん斉藤ヒデさんだったことを後で知りました。私は、当時、再審問題にも関心もありませんでした。熊本から専修大学のある東京に参りまして、弁護士登録をした14年ほど前にようやく、再審に関心を持ち始め大学院時代の先生であり後に同僚となられる小田中聡樹先生が松山事件を始め再審運動でいかにご尽力しておられたを知ったに過ぎません。同じく、今日お話をいただいた庭山先生も渾身の力を込めて、狭山事件をはじめとする冤罪に取り組んでこられたことに敬意を表したく思います。
 そのようなわけで、私が、再審事件なかでも、県からの衛生部からハンセン氏病患者と認定され、二つの冤罪事件の犠牲者として死刑が確定し、三度目の再審申請が退けられた翌日に死刑執行された藤本松夫さんに関する事件、いわゆる藤本事件をこのシンポジウムで取り上げる事は、分不相当であるとお叱りを受けるかも知れませんが、ご容赦願いたいと思います。私は、藤本松夫氏が無実であると信じておりますので、事件が発生した土地名、菊池事件と呼ばずに、彼の名誉のためにも藤本事件と呼びます。また、藤本松夫さんを藤本と略称します。

 4 事件の背景
 ハンセン氏病患者への対応は、いずれの国においても酷いものでした。かねて、冤罪のことで、大佛次郎の『ドレーフェス事件』を読む機会がありました。19世紀の終わり頃、フランス陸軍の参謀本部の機密がドイツに漏洩する事件が起きますが、この冤罪の犠牲者となるのがドレーフェス大尉です。裁判の経緯等については、ここでは省略しますが、彼は終身流刑に処せられます。その流刑地が、南アメリカの北にあるフランス領ギニアのサリュ(salut)諸島です。この島の一つが悪魔島(diable)ですが、実をいえば、この島はなんとハンセン氏病患者のいわゆる療養所のおかれた島なんですね。ゾラの助力もあって、ドレーフェス大尉は10年ほど後に無罪となり自国に戻れたのですが、ここに隔絶されていた人々が終生本国に戻れないことを知りました。
 わが国でも、植民地政策の結果、韓国の光州の西にある子鹿島(ソロクト)も同様のことが行われました。そもそも、療養所は外部との交通の容易でない離島又は隔絶地の設置されるわけですが、療養所や特別病室とは名ばかりで、わが国特有の物理的政策、つまり、患者の自然死を待つ施設です。そして、当然に、患者の根絶を徹底するために断種をも強要する場所となったのです。
 戦前昭和11年に開始された「無らい県運動」は、戦後昭和24年に「第2次無らい県運動」として実施されることになります。藤本は、この犠牲者となるのです。藤本事件の、法律上の最大の問題は、まず、この隔離によるハンセン氏病患者の絶滅政策にあります。第二次世界大戦中、既にプロミンとか、その後、開発されるリファンピシンなどの薬により完治できることが明らかになっても、わが国では、平成8年4月に制定された「ライ予防法の廃止に関する法律」が制定されるまで、忌まわしき隔離政策は続行されたのです。国際的な批判を受けながらもこれらの人々を非人道的に処遇し、憲法に定める基本的人権を侵害したことが、藤本事件を考える出発となります。国家権力が、当然司法も協力して、ハンセンシ病に対する偏見を与えたことが、冤罪を生みだしたのです。私は、そのように確信しております。
 熊本県では、ハンセン氏病関連で様々な問題が起きました。昭和15年には、本妙寺のライ部落に警察が強制的に立ち退きさせた事件、翌年には、リデルとライトの設立した回春病院が敵国人として弾圧され、解散せざるをえなくなった事件、その病院後に作られた竜田寮、ここにはライ病患者と親族関係にある子供達が居住しておりましたが、昭和28年、この子供達が黒髪小学校に通学を拒否しといういわゆる竜田寮児童通学拒否事件(黒髪寮事件)も相次いで起きております。藤本事件につき熊本地裁が死刑判決を下した直後のことです。水俣病患者に対してと同様、弱者には厳しく対応する県民性でもあるのでしょうか。肥後もっこすは、決してそのようではなく、国是に流されてきたのではないでしょうか。

5 藤本事件の背景
 厚生省は、ハンセン氏病の撲滅のための30年計画をたてました。しかし、なぜか、その疾病を治癒させる効能のある治療薬プロミンの予算を削り、療養所への大規模な収容計画を実行する事になりました、中でも、九州療養所菊池恵楓園は、2100名を収容する世界最大のライセンターでした。昭和25年8月にハンセン氏患者の全国調査が行われ、厚生省は、都道府県にその患者の一掃の指示と報告を義務づけます。同年12月に、熊本県は、藤本に対して、「翌年2月7日より、国立療養所菊地恵楓園に収容する」旨の通知をしましたが、藤本はこれに応ぜず、その後入所勧告が出ることになります。藤本は、熊本、博多、小倉などの病院を巡り、ついに、九州大学医学部からハンセン氏病に罹患していないとの証明を得たのですが、2回目の入所勧告が出されることになります。
 恵楓園の所内には、さらに、刑務所が設置されたのです。定員75名です。厚生省は、通達指示し、増床した分ンの患者、新規に完成した刑務所、これらのスペースに収容する患者狩りを県がさらなる「ライ狩り」を実施します。このときに、藤本に対する第1次入所勧告がなされたのです。しかし、刑務所の完成後に目論まれたことは、ある者達をここに入るよう陥れることであり、藤本ダイナマイト事件は、国と県がライ病患者になした施策としてなしたことから生じた冤罪であると、私は考えております。

 6 冤罪は国家によって作られる。
 時間の関係で、私の話が途中で終わることは眼に見えておりますので、冤罪に対する、私の理解を結論として、述べておきたいと思います。
 このシンポジウムのテーマ、タイトルを、「冤罪は、なぜ起きるか」と書きましたが、これは、私の本音ではありません。心底からは、「冤罪は、国家権力により作られる」と書きたいのですが、多少過激名タイトルであるとお叱りを受けると考え穏当なタイトルにいたしました。
 私は、弁護士登録をした後、あこがれであった後藤昌次郎弁護士などの大先輩の方々と仕事ヲさせていただくにつけ、冤罪は起きるだけではなく、まさしく作られるものであることを確信いたしました。ここでは、冤罪がなぜ作られるのかを主にお話をします。冤罪の作り方は、小田中聡樹先生がお書きになっておりますし、数多くの冤罪の実態を見ればすぐに見当が付くと考えます(小田中聡樹『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書))。
 例えば、このシンポジウムを開催した今村法律研究室のいわば父である弁護士今村力三郎の場合には、併合罪の審理を別個の裁判所で審理しようとした裁判官に疑義を唱え、それを聞き入れない東京地裁の垂水裁判官を忌避した事から、逆に、訴訟進行を遅滞させたとして職務怠慢の理由で懲戒を申し立てられることになります。しかし、これは口実にすぎません。この懲戒の申立がなされた真の理由は、今村を法曹界から排除させることであり、今村に自己防衛のために、あるいは、見せしめめのためにも、支援する法曹に時間や労力を消耗させることであったと確信しております。戦争の道を歩む国家権力にとって、人権擁護を唱える今村は、邪魔者に他ならないからです。今村は、大審院でかろうじて救われました。この懲戒に係る経緯や事件については、来年草々今村法律研究室から刊行が予定されております。付言すべきことは、かの垂水判事が、戦後最高裁入りを果たします。松川事件で、どのような判決文を書いたかは自ずと理解できると存じます。
 今村が弁護した幸徳秋水等は、どのようでしょうか。赤旗事件で恥辱を受けた国家検察は、現在わが国でも取りざたされている共謀罪に基づいて、無政府主義者である幸徳らを抹殺するために一網打尽に捕らえます。そして、死刑台に送るのです。大逆事件は、この一例に他なりません。
 これらの例からも、冤罪とは、特定された目的のために権力が協力して、個人、組織ならびに団体を犯罪者に仕立て上げ、必要なときには、命を召し上げるという意図的な行為です。これから、その目的の幾つかを述べることにします。
 まず、政治・社会運動を阻止、その勢力を減殺するためです。レッドパージに後押しされて、労働運動の高揚を阻止するために、数多くの事件が起きました。松川、三鷹、青梅事件、すべてそうです。下山総裁の轢死もその連続線上にあると思います。現在でも、それは多々あります。私も関わりのある、JR総連、この組織は平和を希求し、組合員の地位の安定に努め、安全運送にを実現することに邁進している組織ですが、これを瓦解させようとする画策する事件が起きました。浦和事件がその一例です。
 しかし、冤罪の構造的な悲劇さは、弱者が冤罪者に仕立てあげられるということです。犯罪の如何を問わず、弱い者に濡れ衣を着せるのです。表現が穏当でないかも知れません。お許しを願いたいと思います。多少頭の回転の弱いとされる者の例は、伊佐さんのお書きになった島田事件に見られます(伊佐『島田事件』(潮出版社))。社会的弱者では、部落出身というレッテルを張り、濡れ衣を着せ続けている、石川さんの狭山事件。外国人では、朝鮮人である福岡事件、国籍に基づく差別が顕著です。ハンセン氏病と言うことで、いま話しております藤本事件。冤罪だけでなく、民事事件も病気に罹患している人に対する冷遇も顕著ですよ。さらに、女性もありますね、甲山事件。そして、内縁の妻の立場を悪用した徳島のラジオ商殺害事件の富士茂子さん。少年の事件も多々あります。伊佐さん、後藤弁護士、土屋貢献元日弁連会長も弁護団として参加されていた、いわゆる酒鬼薔薇聖斗、神戸少年殺傷事件も冤罪であると考えております。
 要は、犯罪が必要なときには犯罪を作り上げる。あの鹿児島事件もそうですね。酷い話です、小さな志布志の町全体を冤罪の対象とする訳ですから。こんな風に、犯人が必要なときには、犯人をつくるのです。国家、司法関係者は、ときには弁護士も加担して、共犯者も見つくろい、証拠もでっちあげ、冤罪者を有罪に導き、ときには、死刑台に送るという次第です。これが冤罪です。
 
 7 殺人未遂・火薬取締法違反の刑事事件
 以下では、藤本事件の概要と捜査から裁判に、そして処刑に至るまでの問題点について述べることにします。この資料として、藤本松夫を死刑から救う会から出された小冊子、「予断と偏見の裁判:藤本事件」と、現在西南学院大学の教職にある平井佐和子さんが2002年に九州法学84号でお書きになった「藤本事件-「真相究明」と再審」の御論文に依拠させていただきました。暗かった闇に、一筋の光明が差し込んだような感慨にふけりました。感謝いたしております。
 昭和26年8月1日午前2時ごろ、藤本ダイナマイト事件が起きます。熊本県菊池郡水源村大字日生野農業藤本算(はかる)氏(当時50才)方に直径一寸、長さ一間余の竹にグイナマイトをくくりつけたものが投げ込まれ、算氏と二男公洋君(当時四才)が重傷を負うという事件が発生しました。この事件で同村の藤本松夫さん(当時29才)は、殺入未遂・火薬類取締法違反の疑いで犯人として逮捕され、昭和27年6月熊本地裁の菊池恵楓園における出張裁判で懲役十年の判決を言渡されます。
 この事件は、被害者の算氏が同村役場に勤務中、県衛生課のライ調査に際し、藤本さんがライ病の患者であると報告し、国立病養所菊池恵楓園(同郡合志村)に入所を要求したことに起因するとされました。藤本さんはライ病であることが信じられず、役場吏員をしていた算氏が悪意をもって密告したためだと思い込み、恨みに思っており、そのための遺恨の凶行とされているのです。これに対し、藤本さんはあくまで無実を主張、福岡高裁に控訴したのですが、ついに控訴棄却となりました。
 この裁判で、有罪の物的証拠とされたのが爆破に使ったとされる導火線やヒモなどです。当初の捜査では出てこないものが、藤本さん方の家宅捜査で発見されたというのです。狭山事件でも被害者の中田さんの万年筆が石川さんのの家の鴨居から出てきたとされたことは皆さんもご存じですね。このダイナマイト爆破事件でも、藤本さんや家族の話によれば、家宅捜査の時は何もなかったのに、あとで警察に呼びだされた際、自宅から出た証拠物件だとして見せられて驚いた、といっています。日本の捜査官にはマジックが使える人が多くいるようです。無かった物を有ったとするのですから、マジシャンではなく神であるといえるかもしてません。これほど腐敗していうと言うことです。捜査が。とくかく、藤本事件は、冤罪ですから当然なことですが、あいまいなことだらけです。
 その後、同事件の控訴審理中の昭和27年6月16日、藤本さんは、当時収容されていた熊本刑務所菊池拘置所(菊池恵楓園内)を逃走し、指名手配されることになります。

 8 単純逃走、殺人被告事件
 藤本さんに悲劇的な最後を迎える事件が起きるのです。拘置所を逃走した三週間後の7月7日午前7時頃、菊池郡水源村綿打区西方の山林中で藤木算氏が上半身に二十数ヵ所の切刺傷を負い、惨殺されているのを小学生が発見しました。この事件の数日後、藤本さんは水源村の山畑家で単純逃走・殺入の容疑者として逮捕され、取調後、起訴されました。昭和28年8月29日熊本地裁出張裁判(竜口裁判長係)で死刑の判決を言い渡されることになります。12月1日福岡高裁に控訴、五回の出張公判ののち29年12月13日控訴棄却、原審どおり死刑を宣告されたのです。

 1)全患協の救援活動
 昭和28年9月、同じ病気に苦しむ全国の療友は、藤本さんの無実を信じ、この裁判に疑問を抱き、全国ハンセン氏病患者協議会(全患協)を中心に「公正裁判」を要求して藤本さんの救援に起ち上ります。
 この救援活動の骨子となるのは、
 ①被告の人間性や生命が、ハンセン氏病患者であるために軽んじられている。
 ②人間の生命はたとえその人がどのような境遇におかれていようとも、なににもまして尊い。かりに藤本さんが罪を犯したとしても、不完全な裏付けで尊い生命を奪うことは人道上妥当でない。
 ③死刑という極刑は、ハンセン氏病患者への見せしめの意図がある。
ということでありました。
 全患協は、この事件を重大視し、人権のためばかりでなく、裁判の公正と名誉のために世論に訴え、民主団体や女化人に援助を求めました。乏しいなかからカンパを出しあって、救援と裁判の費用を集め、第二審判決を不当として30年3月12日、自由法曹団の関原勇、野尻昌次、柴田睦夫弁護士らにより最高裁に上告しました。昭和31年4月、32年3月と二回にわたる口頭弁論が開かれましたが、同8月23日上告は棄却され、死刑が確定したのです。弁護団では、直ちに判決訂正申立をおこなって不当なお白砂的暗黒裁判を弾劾し、全患協では、「藤本松夫氏を死刑から救う会」を組織して運動をすすめていたのです。
 2)突然の死刑執行 
 特に強調しなければならないことは、全患協の「救う会」による再審運動が開始されました。1957年10月2日 第1次再審申立、1960年12月20日 第2次再審申立、1962年4月23日 第3次再審申立です。この第3次申立が、1962年9月233日 再審申立却下された翌日、藤本さんは、福岡に移送され、死刑執行されたのです(9月11日 法務大臣死刑執行指揮書に押印)。関係機関が予めしめし合わせて、藤本さんを死刑台にのぼらせたされたことがよくわかります。
 3)公判後の経過を見ますと、以下のようになります。
 ①「特別法廷の設置」裁判所法69条2項
:国立ハンセン病療養所菊池恵楓園内、熊本刑務所菊池支所
②第1審(殺人被告事件)4回の公判期日
:被告人は、罪状認否で全て否定
 ⇒ 国選弁護人の対応(意見としてのべることなし、検察官請求の証拠請求す  べてに同意、現場検証に弁護人も被告人の立ち会いなし)
   :審理開始後、1953年8月29日、僅かに8ヶ月で死刑判決(竜口裁判長係)
 ③自由法曹団による本格的な無罪立証の開始
 ⇒ 1954年12月13日 控訴棄却
④最高裁上告棄却
 ⇒ 1957年8月23日 死刑判決の確定
⑤全患協による再審運動開始 =「救う会」
  : 1957年10月2日  第1次再審申立
1960月20日 第2次再審申立
1962年4月23日  第3次再審申立
 その途中(9月11日 法務大臣死刑執行指揮書に押印)
1962年9月23日  第3次再審申立却下
      翌日  死刑執行
 裁判の経過からみると、犯罪事実は、ほとんど確定的であるかのような印象が与えられました。しかし、本件について、裁判所が有罪判決を下すための唯一の有力な証拠としたのは、逮捕直後の藤本さんの自白調書と叔父、叔母の証言ですが、いずれも根拠が薄弱であり、任意性がありません。後で触れることにしますが、有罪を認定する物的証拠が不十分であり、いちじるしい疑問点が残されており、事実誤認があるにもかかわらず、死刑が言い渡されました。この理不尽な判決により、藤本さんの犯行は何ら確証されず、事件の全貌は明らかにされておりません。公判及びその後にあらわれた事実は、疑問と不信を呼び起こすに十分なものなのです。

 藤本事件の核心とは何んでしょうか。 一言につきます。国策として、ハンセン氏患者を絶滅すること、そのために患者を療養所内に設置された刑務所に収容し、ダイナマイト事件のでっちあげを隠蔽するために第二の冤罪を構成したことです。
 一審以来の裁判の経過をみると、各裁判所は、事件の真実の探究することを故意に避け、おろそかにし、藤本さんにより犯行されたことを最初から既定方針として、ひたすら有罪へ、死刑へと判示してきました。最高裁の判決によっても、何も解明されておりません。藤木事件について犯罪事実の上で明らかにされなかった数々の疑間点を追及してみよう。
 1)有力な証拠とされる自白調書
 認定判示にもっとも有力な証拠としてとりあげられている藤本さんの自白調書は、逮捕された際、警官の拳銃で射たれ、高熱を出し意識が通常でないときにとられたもので真実性がありません。藤本さんは、この自白を除いて、終始犯行を否認している。
 2)凶器は、一体何であるか。
 冤罪事件では、時々凶器が代わることがあります。藤本事件はその典型に属します。逮捕された時、藤本さんは草刈鎌を持っており、「これで殺した」と自白したことになっていたはずです。その鎌は錆びたボロボロのもので、犯行の凶器でないことは、裁判所自身認めていたところです。
 叔母平山ミヨの証言で、凶器の包丁藤本被告が凶行後家に現われて「オレは算を今やっつけてきたこアイクチをどこどこに置い来たから持ってきてくれ」といい、その証言に基いて捜査したら現場付近から出てきたことになっております。しかし、獄中の藤本被告は「アイクチを持った覚えは全然ない。もし自分にアイクチを渡したという入があれば誰でもいいから調べてもらいたい」といっているのです。藤本被告にアイクチを渡したという松原良助氏を検察側が申請して調べた結果、事実に反することが明らかになりました。「このマイクチをもって殺したことになりている原判決の認定は、証拠認定上非常な疑問がある」ということです。
 証拠物件と認定された庖丁は、鑑定人である熊本大学医学部の世良完介教授が、凶器が刺身包丁ではないかと述べたことを受け、捜査を行うと何と包丁が発見されたという不思議な包丁です。それが犯行に用いられた凶器であるならば、当然血に染まり血痕の付着が認められなければならないはずです。鑑定人世良博士の鑑定結果は、「凶器の金属部分、木柄の部分のみならず、木柄を引き抜き、その間に嵌入している微細な黒砂粒」まで残すところなく検査の対象とし、「極めて微量の血痕にも確実に鋭敏な反応を呈する方法であって、その検査において陽性の反応が得られない場合は血痕として追求し得べき方法がない」ほどの精密な方法をとっているが、その結果は「完全に陰性であって、各部において血痕と認められるべき汗斑あるを認めない」と鑑定しております。これに対する裁判所の認定は、被告が凶行後洗ったのだろうとしております。洗えば、血液がなくなると考えること自体非常識な判断であることはお気づきですね。洗っても化学反応は得られるし、木柄の部分に入ったものは、洗い落すことは不可能であり、被告が確かに洗ったということは審理の上でも何ら立証されていないのです。また、この庖丁を藤本さんがどこからどうして手に入れたか、彼が所持していたかどうかさえ証明されておりません。
 3)藤本さんの身体や衣服に被害者の血がついていない
 被害者の死因が頭部、頸動脈切創に基く失血によるものであるとすれば、藤本さんが犯人であるとすれば、胸部や顔面等に相当面の返り血を受けていなければならないなずです。しかし、藤本さんの身体や衣服には一粒の血痕の附着が認められません。このことは、事件発生直後、藤本さんと会った叔父平山市次及び平山ミヨの証言によっても明らかです。 また、証拠物件中のタオルおよびズボンには血痕があり、これが有力な証拠品とされていますが、これらは藤本さんが逮捕された際、警官の拳銃で手を射たれた自分の血が附着したものであることは明らかです。
 4)審理の過程ですり替えられたタオル
 原審において、検察官は、タオルが藤本さんの所持品であり、血痕が被害者のものであると主張したことに対して、藤本さんは、これが「逮捕当時、母と妹が手当をしてくれた際、首から手を吊ってくれたもので母または妹のタオルである」と圭張しておりました。
 これは極めて重要な争点であり、藤本チズオ(妹)、藤本マツエ(母)、藤本健男(弟)の証言と藤本さんの終始変らぬ供述によっても、妹チズオのタオルであることが証明されているのです。ところが、証人出口正治外三名の警察官の証言によると、藤本チズオのタオルは駐在所で工藤医師の手当を受けた後、紛失したことになっているのです。このよう重要な証拠品を紛失したということには、首肯できる理由がありません。場所や機会から考えて信じられる証言ではないのです。冤罪事件では、このように被疑者や被告人に有利な証拠は、いとも容易に隠滅されたり、遺棄されたりするのです。
 さらに、この事件で証拠品として提出されているタオルは、一滴の血痕もなく、本件とは全く無関係であることが明瞭であるにもかかわらず、警察官はこれを証拠品としたのです。もっとも有力な証拠品である血痕が相当附着した藤本さんの妹のタオルである、逮捕現場から右手を吊っていたタオルは紛失したとされ、大堀検事から請求を受けてはじめて捜査の形式をとっているが、タオルがすりかえられた疑いが濃厚です。

 5)真実性に欠ける叔父、叔母の証言
 この裁判では、藤本さんの親類側から、何らの援助も協力もなかったことが指摘されなければなりません。ハンセソン氏病に対する偏見の強い片田舎で、一族の中に患者を出したことは、それだけで考えられないほどの衝撃を与えたと思われます。獄中の藤本被告人は、叔父平山市次から一族のために「死んでくれ」といわれたことがあると告白しています。藤本さんが叔父、叔母に犯行を冒し、凶器の隠匿場所を告げたことになっているのですが、凶器その他について何らの証明がありません。裁判所の見解によれば、凶行後、刃物の血を水で洗って「証拠隠滅」するほど注意を払った人間がなした行為として考えられないことであり、叔父、叔母の証言は真実性のないものであるといわざるをえません。
 
4.裁判の法律上の問題
  法令に反する藤本裁判
 藤本被告がハンセン氏病患者であるがゆえに、刑事被告人に保障されている手続がとられなかったことを知りえます。例えば、検事側証人に対する反対尋問も行われず、第一審公判調書には、裁判長の署名押印また裁判官差支えの場合の法的手続がとられておらず、刑事訴訟規則第46条に遠反しているは明白です。以下では、裁判に見られる法律上の問題点を簡単に説明します。
 1)①特別法廷の設置違憲の疑い(62条2項)
    =藤本さん(神経ライ:陰性)
②らい病患者の公判=非公開
白装束と火箸 ⇒司法による、ハンセン氏患者に対する差別と偏見の植え付け
 2)証拠保全手続の濫用(刑訴法227条による裁判官による証人尋問)
   公判前の証人供述
:被疑者、弁護人、検察官の立ち会いもなく行われた。
 3)実質的弁護の不在
:弁護人の依頼権、黙秘権、反対尋問権が保障されず
①罪状認否
②書証に対する全面同意:書証に対する弾劾が皆無
③現場検証への立ち会いの懈怠
④重要証人への尋問の懈怠
4)「凶器」をめぐる法医学鑑定の問題点
熊本大学医学部 世良完介:「凶器の血、洗い流した」
九州大学医学部 北条春光:「すべて陰性、そもそも鑑定資料も不潔であるし、」
 ⇒「強いていえば、A型らしい」

 終わりに、現在、らい予防法違憲国倍訴訟弁護団による死後再審への動きにも、言及しなければならないかもしれません。しかし、死後冤罪だと認められたとしても、藤本さんが生き返る訳ではありません、誤判に基づく死刑を救済することは不可能なのでありません。
 藤本さんが死刑執行の直前、遺書を書く時間も気持ちの余裕もなく、則夫氏が事務官の代筆により残した手記には、このように記載されておりました。
 「私は、再審願いが受理されて、無罪が証明されることを信じて疑わない。私のライは根治している。失われた十年の悲しみは返らないが、私は青天白日の身となったら、故郷に帰って働くだろう。幸薄かった母の老先を幸せでうずめ娘の父であることを誇らしげに名乗ろう。そんな日の到来を疑わない。真実は暗闇に閉ざされてはならないのだから」。

 資料(文中の引用されたものの他)
 前坂俊之「もう一つの免田事件」『誤った死刑』(三一書房、1984)
 井上光晴「ハンゼン氏病偏見裁判への抗告」『幻影なき虚構』(筑摩書房、1966)
 徳田靖之「菊池事件・ハンセン病差別の死刑事件」『無実の死刑囚たち』(インパクト出版、2004)
 www.eonet.ne.jp/~libell/t-hujimoto.htm
 
MYPROFILE