文柳山法律事務所訪問記
矢 澤 f 治
1 私の大連との関りと中国における法実務家の欠如
マイクロバスが見慣れた建物の隣に停車した。大連の黄河路にある、文物(骨董)を商うこの建物には、時々印材などを探しに来たことがある。まさか、文柳山法律事務所が入っているビル、麗都花園がすぐこの商場の隣にあったとは。
私は、1995年の上海への在外研究の機会に、渉外的な取引法の勉強ではなく、いわゆる可行性研究(feasibility study)を主として学習した。これは、企業が他所に進出するときに、例えば、日本企業が中国に進出する場合に、いかに、どのように法律的問題に対応すべきかの問題を含めた全体的な問題の検討である。しかし、私の研究の主たる内容は、日本の工場をたたんでこの新天地を求めてきたものの、合弁に失敗して、退散を余儀なくされる事例研究であった。その上海生活の功罪があって、帰国後、私はある日本企業から大連に合弁会社を設立することを依頼された。
当時の大連市長薄熙来※は、環境に優しい街作りを重点政策としていた。私の東北大学大学院時代にお世話になった、仙台市に在る曽根製袋株式会社の曽根正則社長は、東北大学の経済学部の出身ながら、ショッピング・バッグのコンピュターによる製造の特許を取得した後で、筋なしの袋など新しい技術をも開発している切れ者でもある。ショッピング・バッグ全てが腐敗して自然に還る、その特性と技術の高さに目をつけられ、薄熙来市長から、大連でその製造のための会社設立が求められたのであった。 私は、弁護士として、初めて合弁会社の設立のビジネスを行うことになった。大連の合弁会社の提携相手は、盛道集団公司である。合弁の内容、交渉のプロセスなどの紹介については、別の機会に譲るとして、私は、日本国曽根製袋株式会社と中華人民共和国盛道集団公司間の、特許実施許諾契約、機器及び材料の供給契約、人員の教育実施契約などの附随的な事項も含めて、ショッピング・バッグをコンピュターにより製造する工場の合弁会社設立の法務を担当することとなった。
正直に言って、合弁・合作形態の選択から始まる交渉過程は、いわば「暖簾に腕押し」の連続であった。自分に中国語の会話能力もないことにもよるが、日本語会話が可能であっても契約や法律のこととなると皆目知らない、または、理解できない人、契約の観念を知っていてもその必要性を認めない人、中国流の法的な処理だけを主張する人、契約の必要性と国際的な法務処理の必要を認めながら、何ら代理権を持たない人などが立ち代り入れ替わり担当者として、交渉のテーブルに登場した。辟易しながら、数回、数日間缶詰状態の中で孤軍奮闘し、最後は、交渉の代理権を有する、少なくとも特許実施許諾契約を含めて自分の用意した合弁契約とその附随書類の内容を理解していただくことにこぎつけた。これ以上の妥協を理解できなければ、合弁会社の設立は断念しようとの曽根社長の後押しがあったことは当然である。つくづくと、この国にも、法律、契約、企業法務そして国際ビジネス法務を知り、交渉できる相手方の代理人がおれば、もっと、円滑な交渉ができるのにと感じたものであった。とはいえ、当時の盛道集団公司も、数多くの国々の企業との合弁も進めており、間違いなく中国の企業として、他国の企業の有する技術を吸収して行こうとするその取り組む姿勢に真摯さも理解することができた。一時期に見られた、外国企業の犠牲の上に、自国の企業の発展だけを謀るという姿勢は明らかに変化してきているのである。
※ なお、薄熙来氏は、2000年2月24日に開催された、遼寧省第9回人民代表大会第4回会議において、遼寧省長に選出された。
2 文柳山法律事務所訪問団と大連の律師(弁護士)制度
2001年3月17日午後、我々の文柳山法律事務所訪問団のメンバーは、社会科学研究所長古川純、故坂本重雄、木幡文コ、広瀬裕子の諸先生、そして、矢澤である。訪問者をフルネームとして記載したことには、理由がある。大連から帰った後、特に法学部の参加者と6日間行動をともにされた坂本重雄先生が、4月29日に急逝されたからである。この文面とスペースを借りて、先生のご冥福を心よりお祈りする次第である。
そして、文柳山法律事務所側からは、文柳山弁護士と車奎弁護士が多忙中であるにもかかわらず、我々を迎えてくれた。我々全員からの質問にも、両弁護士から丁寧なお答えをいただいた。その質問の事項は、概略すると、1)文柳山法律事務所の業務の内容、2)律師制度、3)刑事事件、4)労働事件、5)家事事件、6)合弁契約、7)行政事件などについてであった。これらの事項のいずれについてもえられた回答を詳細に述べたいところであるが、律師と合弁契約について言及するにとどめる。
北京や上海には、自分の知人たる日本人の弁護士も法律事務所を構えている。また、現在では、渉外法務を行うことができる益々優秀な中国人弁護士も、確実に養成されてきている。しかし、先の仕事で自分の相手方となった盛道集団公司をはじめ、大連には、日本の企業と交渉のできる、中国のいわゆる渉外弁護士の存在をしばらく知らないでいた。今回の社会科学研究所を訪問するに際して、私が熊本大学法学部赴任時代に教えたことがあり、元中国政法大学のスタッフで国際私法を教えていた趙玉仙さんから、大連の文柳山弁護士および法律事務所の存在を教えていただいた次第である。文弁護士および文柳山法律事務所の紹介は、本稿に附録の翻訳で詳しく知ることができるので、それを参照していただきたい。
文柳山弁護士は高級弁護士である。中華人民共和国は、江沢民主席の下、全国30万人体制という弁護士(律師)制度の量的・質的拡充改革を行ってきた。現在10万人程度の弁護士がいるといわれる。中国でも、わが国の司法試験に類似の全国的なかなり広範囲の科目を試験範囲とする国家試験制度があり、それに合格した弁護士は、経験年数、外国語の能力の有無、党委員会による評価などにより、1級から5級までのクラスに分かれている。文弁護士によれば、遼寧省では、1級と2級の高級弁護士は、高級職掌委員会により評価される。その結果、大連市では1級弁護士は3名、2級弁護士は10名にとどまる。大連だけでも、弁護士は、毎年正確性をいささか欠くかもしれないが、150名程度増加しているといわれる。弁護士会も存在する。この会務活動は、弁護士の研修、各都市や他国との交流、弁護士の規律や倫理研修を行っている。ただし、弁護士の規律や登録などは、司法・矯正局が行っているのである。
3 大連における渉外法務活動
私の関心と質問は、やはり合弁に関する業務についてであった。文弁護士も、基本的に可行性研究の基本的な事項について触れながら、合弁契約のパートナーの選択における、その人格や信頼の重要性を強調されていた。カネは重要であるが、ヒトが根本をなす、ということは確かであると同感した。しかし、文弁護士は、いわゆる知的財産権(専利権)について、中国と他の国家間のその権利の評価について双方の側に違いがあると指摘された。しかし、私は、国営企業の下で、未だにニセモノが横行し、天国を築いてきているこの国の知的財産権に対する法的感覚と理解には納得できなかった。さらに、WTOのことなどのことも質問したかったが、その時間的な余裕がなかったのは残念であった。現在、文柳山法律事務所では、日本のあるゼネコンの工事請負金額をめぐり、大きな紛争をかかえているといわれた。日本を含め、中国や東アジア地域でも益々間断なく渉外商事紛争が激増してゆくに違いない。こうした紛争を解決すべく中国では、大連のみならず各省でも、商事を含めた紛争について仲裁制度がある。大連の商事仲裁委員会についてもその具体的な制度内容を伺ったが、これについてはまだ生煮えの理解状態である。国際取引法や国際紛争の解決制度を教えてきた自分にとっても、急速に変化する中国のシステムを学習することの困難性を覚えながら、今後、ますます実務も取り組んでゆきたいと想った次第である。帰りに、文弁護士から、先生を紹介した著書を戴いた。その内容はいささか誉めすぎではないかとも想うところでもあるが、これも中国流の考え方とやり方であり、文弁護士から、翻訳にかかる快諾も得られたので、先生の紹介の個所を翻訳して載せることにした。
【付録:翻訳】
文柳山:「亮出?的王牌(斉祥春)」 『中国の著名な弁護士』より
" 文先生、貴方はこれです。 "アメリカのある大企業の取締役会長が親指を立て、文柳山に対して称賛の言葉を述べながら云う。"将来、我々の合資企業が設立せれたら、ぜひ顧問弁護士として迎えたい!"
文柳山は、いわゆる " 大器晩成"型のタイプであり、弁護士になった時はすでに36歳であった。しかも製鉄工場の労働者をしていた彼が鋼鉄の意志をもって先駆者を追い越し、大連の弁護士界で皆から注目される星となったのである。彼は、大連市の " 最優秀弁護士 "、" 遼寧省最優秀弁護士"であるだけではなく、大連市委員会および市人民政府の顧問中唯一の弁護士でもある。
文柳山:切り札を出せ
文柳山がまだ大連市第一弁護士事務所にいたとき、ある日若い弁護士車奎が突然と思い立った。文柳山の詳細な事情を調べたい文柳山が1989年1月に弁護士を開業し、たった6年間で大連市において皆に名が知れ渡っているのがなぜであるか?
車奎は、文柳山に関する一切の資料を並べ、一つ一つ丁寧に調べ上げたが、手に汗を握る様な訴訟事件は何一つ無かった。しかし、一連の数字に注目した。
文弁護士の弁護士手数料が毎年うなぎ上り、一年目1万元、二年目2万元、三年目4万元、四年目8万元、五年目16万元、六年目は100万元近く・・・・・。
文弁護士は鞍山の出身である。彼にしてみれば、大連は他所の不案内の地であり、彼もまたチャ ンスを狙ってうまく立ち回ることもしなかった。あの一連の数字は、多くの小額事件の代理人としての業務で得られたものであり、文柳山が過した長い奮闘の歳月を明らかに物語っていると同時に、彼の知識才能と勤勉及び人生の探求と品格を十分過ぎるほどに証明していた。
ほどなく、車奎と若い女性弁護士?冰は、文柳山と協力し、共同で"文柳山弁護事務所"を設立した。
文柳山は鞍山に生まれ、鞍山に育った。親は、中国工農紅軍の一員であったので、子供の時から特別の配慮や豪奢な生活を望んだこともなかった。苦労に耐えることを学び、この上なく平々凡々な生活を学ぶ必要があった。彼は、四年間、銑鉄の仕事をしながらぼんやりと" 労慟者階級は指導者階級である "という言葉の真の意味を考えていた。そして、労働者はもっと知識を習得しなければならない。そうでなければ、どんな階級であっても社会の人々から尊敬されることはできないとの結論を得た。
1978年、幸運なことに文柳山は鞍鋼幹部管理学院に入り一時休職して三年間日本語を勉強する機会を得た。その後、通信大学に入り三年間法律を学習した。引き続き北京大学院で経済法を専攻し、修士の学位を取得した。1988年9月、35歳の文柳山は、大連市に配属された。文柳山は、大連市には知り合いが一人もおらず、その上、大連の地理には全く不案内であった。すべてが新たに始まった。しかし、この「新たに始まる」ということは、彼にとっては、いつもと同じであると言う意味があった。
すべては自分の力で
文柳山は、弁護士になる前から豊富な人生経験を積んでいた。16歳で就職、36歳で護士なった。16歳から36歳までの20年間は、人生の旅においては、長くもなく短くもないが大事な期間であった。それゆえ彼にとって早く名を上げることが最優先であった。そして彼は誰よりもその方法をよく心得ていた。
とりわけ弁護士の仕事は、その名前をよく知られていることを必要としている。名高い弁護士であれば有名な訴訟を代理する機会も多く、また大きな訴訟を代理することが弁護士にとっては知名度を増すチャンスでもある。
しかし、大連での文柳山はよそ者だったので、弁護士として有名となるような大きな訴訟の代理人となることがまったくなかった。成功への近道はなく、彼は極めて小さな訴訟事件の代理から着手した。
ある医療事件が発生した。彼は、列車に乗り沈陽医科大学に行き、遼寧省の衛生庁の事情聴取をし、大連市衛生庁により、院などの事情聴取を行った。1年半後、報酬として100元を受領し、事件は最終的な調停による解決を見た。
ある70歳の老婆がバスから降りるとき、ドアに足を挟まれた。バスがそのまま発車したため、老婆はけがを負った。文柳山は、彼女のことを思いわずか50元の手数料をもらってすぐ調査に取り掛かった。彼はバスの当番運転手から事情を聴取したり、その場に居合わせた乗客を探し出して事情を聞いたりしてから、バス会社に対して損害賠償を請求した。彼は自転車とバスで10数回往復し、最終的にバス会社と老婆の間で示談を成立させた。
・・・ 文柳山は、このように少しずつ努力を積み重ねた。他の人と比べると苦労は多いが、着実に信用も得た。彼は小さな訴訟事件を通じて人気を上げながらも大事な経験を積んだ。当然このような形では弁護士として名を上げることが容易な事ではない。しかし、彼は、「有名」になることよりも普通の農民を「訴訟の苦痛から解放する」ことを目標とした。彼は、民衆に社会の正義と公平を信じさせることを任務とし、自分自身が有名になることはどうでもよかったのである。
ある日、一人の老婆がきて、涙ながらに、"文先生! 私に正義を取り戻してください"と言った。老婆の二度目の夫が亡くなった後、夫の子供達は彼女を追い出しにかかった。女は頼れる者もなく、生活ができなくなってしまう。毎日涙ながらあちこちに訴えてきた。やっとの思いで彼女は文弁護士の助けを得ることができた。文柳山は、少しずつの積み重ねがやがて大きな効果に結びつくことも分かっていた。誰にも頼らず少しずつ少しずつ・・・、彼は成功した。彼は、もはや昔のように仕事を探し歩く必要はない。人々が彼のことを探し求めている。
" 文弁護士、私に生きる路を探してください。20元で足りませんか?" 先ほどの老婆は、ぼろぼろな紙幣を差し出した。
文柳山は、老婆のために当然の相続権を勝ち取った。法律にしたがって彼女の正当な権利を守った。彼は、常に同じ事務所の同僚に"20元と20万元は代表する訴訟の内容に明らかな差があるが、当事者にして見れば、訴訟額が20元であろうが、20万元であろうが同じ重みを感じるはずだ。彼らの人生の中で、もしかしたらこの一回の訴訟しかないかもしれない。" と語っていた。
文柳山は、このような10元、20元の訴訟に通じて、より豊富な人生経験を積み、社会の仕組みをますます把握したのである。小さいな訴訟事件を通じて人々から信用を得て、業務領域を拡大した。
法律業務の市場はすべての弁護士に向けて開放されている。能力がある弁護士は、この市場の中で自分の才能をすべて発揮することができる。しかしながら、人には求める目標に違いがあり、市場を確保する手段も違っている。自分の社会背景を利用して市場を確保する人もいれば、お金で市場を買収する人もいる。それに加えて、費用や報酬の値引きを無制限にしたり、他の弁護士の人格を汚したりして市場の混乱を引き起こす人さえいる。文柳山は、そのようなことを一切しなかった。自分の知識と努力だけで一歩一歩着実に歩んできた。彼には花に満ちた未来が見えたのである。
目の前に希望が一杯
文柳山は、しかたなく選択したのも知れないが、それは、最も苦労の多い道であった。しかし、彼は自分の精神と人格をこの道を歩みながら築き上げてきた。裁判官、検察官ならびに当事者達は彼の精神と人格に感動した。その感動は訴訟の大きさだけで計れるものではなかった。優秀な弁護士とは小さな訴訟事件からでも推し量ることができるのかも知れない。
文柳山弁護士は、この道を悔いなく歩いているのである。
自分の実学の才能により、一件一件の訴訟を勝ち取ってきた。彼が歩んできた道にけちをつけられるようなことは何一つも無かった。
彼は、どんな訴訟でも最善を尽くすため、1が10に、10が100にとなる好循環となり、噂が噂を呼んで続々と依頼人がきた。彼のことをイバルと思っていた人達でさえ彼の実力の前に頭を下げた。
文柳山がある貸付金に係る事件の代理人を勤めた時、彼は被告側の代理人であった。そして、原告は、大連の開発城市信用協同組合だった。判決が下され、事件が終結した際に、信用協同組合側はどうしても文先生を顧問弁護士に迎えたいと言った。別件では、仕入れと販売の契約に係る紛争を代理したとき、判決後、原告側から"私達は敗訴となりましたが、悔いはありません。また、私達は、まだ何件かの訴訟を抱えています。ぜひ、その代理人となってください。"と言われたのである。
これと同時に、大連市の各裁判所も文柳山を高く評価した。1993年8月に、大連市開発区の裁判所は"主要な裁判方式の改革たる公開裁判"を始めて行なった。「糾問式」を「弁論式」に改めるものであり、これは、司法改革の重要な実験項目であった。公開が許されたものの、とりわけ誰がやるかが大きな問題になった。第一級の水準を有する、一流の能力を有する者の参加が必要であった。再三検討した結果、誰一人の反対もなく、裁判所は、文柳山を出廷する弁護人として指名した。検察院もそれに同意した。文柳山が出廷する、この法廷が公開されるだけに意味があるので。
テレビ局は、公開される裁判の全過程を収録し放送した。その後、この放送は絶大な反響を呼んだ。大連の各界の人々は文柳山の生き生きとした弁護に注目した。ドラマなどでしか弁護士を見たことがない人達は、思わず "大連にもそんな優秀な弁護士がいるなんて"と感嘆したのである。
ちょうどそのとき、大連だけでなく全国においても有名な遼寧省海洋漁業会社も文柳山の素性について調査していた。1980年代後半、その会社は幾つかの訴訟に巻き込まれていた。各子会社も経済的な訴訟に巻き込まれ、頭を悩ましていたのである。
" 我々は改革と生産についてはプロだが、法律問題については門外漢だ。だから、私達には、一流の法律専門家が必要である。"と、全国規模の企業の総経理である張社長は、裁判所の中で最も年齢の高い親友に自分の法に関する考えを語った。その親友である裁判官は、"貴方の企業は大企業であるので、法律顧問を雇うべきだ。" と答えた。一番の候補となると文柳山しかいない。
張社長は暫らく考え込んで、笑った。自分は弁護士に関する風評を知っており、賄賂を使ったり、人間関係というコネを使い法律を動かそうとしている弁護士に対して疑念を持っている。様々な手段を使う、こんなやり方をする弁護士に任せられない。結局、犠牲者となるのはこんな弁護士を信ずる人々だ。親友は、張社長の心配を見破った。"文柳山は他の弁護士とは違う。文柳山は、文柳山であり、文弁護士はあなたを裏切ることはありません。"と親友が言った。
張社長は、検察院、司法局とあちこちで聞いて回った。皆、彼に文柳山のことを推薦した。
大連市ラジオ局が文柳山に法律専門の番組を作ったことが、張社長に文柳山を詳しく知しめるチャンスを与えた。「文柳山弁護士ニュース」、この番組は、大連で絶大な反響を呼んだ。張社長は、多くの人々と同様この番組の忠実な視聴者となった。文柳山は、正式に遼寧省海洋漁業会社の法律顧問に迎えられた。
彼は、漁業会社の権利のために裁判所の内外で誠心誠意駆け回っている時に、この会社が彼の活動を、すでに一年以上もの間興味をもって観察していたことには想像もつかなかったことであろう。会社が法律の保護の下で、さらに着実に前進し、改革の成果が日に日に増して向上している様子を見て、張社長は、心から親友の推薦に感謝した。
文柳山は文柳山である
文柳山は、日常生活でも寛容であり、大らかで洒脱である。普通の人と同じ混み合っているバスに乗れば、たまには人との体の接触もあったが、彼は言い返すことは一度もしなかった。タクシーに乗るときにも他の人と同様、領収書を貰う。通常、中国ではタクシー運転手から"すみません。領収書を使い切って、手元にありません。"と言われた場合、運転手と乗客の間では、領収書が出せなければ金を支払わないと言い争いになることが多いが、文柳山の場合は何も言わずにお金を払って降りるのである。
文柳山は、人と争うことをしないのである。特に、結果の出ない無意味な争論はしない。彼は、全ての弁論才能を法廷に注いでいる。
法廷は、彼にとって真理、正義、道理を語れる唯一の場所なのだ。そこで語られた、この道理は、「標榜」(=布告)という形式で社会に知られる。「「標榜」の力は無限である」。人々は、これにより是々非々を判断することができる。彼にとって法律は神聖なものである。法律上の公平のためなら不撓不屈の精神をもって追求する。
文柳山は、法律理論を複雑な訴訟に上手に利用することを誰よりも心得ており、どんなに困難な訴訟も、法に依拠して分析をなし、迅速に論点を把握することができる。絶望した所に道がある。
文弁護士について、ある人々は彼が博学多才であるからといい、ある人は迅速な思考と弁論できる能力において勝っているといい、また、他の人々は、彼が負けず嫌いであるからともいう。
1999年、ある金属鉱石を取引する会社が大連の貿易会社に対して、鉱石の代金の支払いを請求する訴訟を提起した。
文柳山は、被告(貿易会社)の代理人として法廷に立った。その時、彼は答弁した。"確かに輸出した鉱石は、原告側が生産した商品であることに間違いありません。しかし、輸出した鉱石は、原告側の会社からではなく、別の貿易会社から購入したものです。それについては契約書があります。鉱石の代金も契約書にしたがい貿易会社に支払いました。ここに、支払委託書と領収書があります。被告が同じ商品に2度代金を支払うことはありません。別の貿易会社がその鉱石を購入した時に、原告側に代金を支払ったか否かは、被告には関係の無いことであり、被告と原告の間には何らの法律関係はありません。それは原告側と別の会社との間の問題です。また、被告は、根本的に無関係です。"
本訴訟は、一審で二回開廷され、一年以上も時間を要した。しかも、事件が本訴訟について管轄権を有しない裁判所で起訴され、また、受理された事情もあり、裁判官が明らかに原告に偏向を有していた。一審では、被告に鉱石の代金を支払う責任があるとの、貿易会社敗訴の判決が下された。
彼は、大連市中級人民法院(高等裁判所)に控訴した。二回開廷され、審判委員会の検討後、第二審判決では事実関係が不明であるとして原審への差戻しが命ぜられた。原審へ差し戻された後、合議部が組織された。再び、審理が行われた。国内の貿易会社が参加人となった。しかしながら、再審の結果は、依然として文柳山の代理人である被告会社が代金支払いの責任があるとの判決であった。文柳山は、再び中級人民法院に控訴した。同院では、一回開廷された。ようやく終審判決が下された。文柳山の全面勝訴であった。
この訴訟は、二つの審級で二回審理がなされ、合計六回開廷された。全部で二年六ヶ月の時間を要したが、勝訴で終わった。
…… 文柳山は、自分の鋼鉄の信念で法律上の公平を守った。もし、貴方が文柳山と友達となるならば、彼は、絶対に忠実な友達になる。もし、貴方が彼を弁護士として依頼するならば、彼は絶対に忠実な弁護士となる。文柳山が弁護士としての職責を遂行するときの彼の真面目さは、時には同僚にとって我慢できないこともある。
例えば、ある弁護士が彼の事務所で勤めていた時に、この弁護士は大連に戸籍が無いので、文柳山は、この弁護士に弁護士としての身分を決して認めなかった。その後、この弁護士は他の事務所に移ったと同時に訴訟の代理などの業務を始めた。そこでは、彼の弁護士としての身分について問題とする人もおらず、能力もあったので、その事務所に莫大な経済効果(収入)をもたらした。その件について、文柳山のやり方に対し愚痴が出たとき、文柳山は、"彼は、別の事務所では弁護士として業務を行うことができても、わが事務所では絶対に許されないことです。" と、言い返した。
文柳山の北京大学在学時代の友達がいて、現在某大学で教師をしている。彼女は文柳山の事務所職員も兼任していた。彼女は法律について非常に詳しいのであるが、弁護士として業務を行う資格が無く直接訴訟の代理をする事ができなかったため、訴訟を行うための各種の資料作成を行っていた。時々、規模の大きい訴訟が直接彼女に依頼が来たとしても、彼女が直接受理することはできなかった。そのため、そのような規模の大きな訴訟が他の事務所に行ってしまい、文柳山事務所としては大きな損失となることがあった。しかし、文柳山と彼の事務所の規則を守り通す姿勢が、客を呼び、日に日に繁盛していった。でも文柳山達は現状に満足することはなかった。
永遠の追求
1件10元から20元の小額の訴訟事件から始まり、今では100万ドルから数億ドルに近い高額の訴訟に至るまで、地位もなく、名のない弁護士から、超大物の弁護士にまでに。そして、文柳山自身、単独で活動する事務所から、優秀な人材をかかえる集団法律事務所への活動。これが、文柳山の歩んできた道である。1991年から毎年のごとく、文柳山は大連市の「最優秀弁護士」、「優秀法律業務模範弁護士」として選ばれてきた。1994年には、遼寧省から最優秀弁護士の称号を獲得した。
1995年には、文柳山個人は、再び大連市から、最優秀法律業務弁護士として選ばれたばかりではなく、文柳山事務所も大連市最優秀法律業務事務所として選ばれた。
1996年6月には、文弁護士は、大連市委員会および大連市政府より、中国共産党大連市委員会と大連市政府の第3回諮問委員会のメンバーとして招聘された。
大連市委員会の于学祥書記も"諮問委員会のメンバーの仕事は、市委員会と市政府の政策判断を健全にするために、政策決定のより民衆化、科学化の水準を高めるために成立した大連市の最高の知能集団であり、社会各界の賢人を政治に直接参加させる新たなる組織であります。"と言った。文柳山は、この諮問委員会に参加した唯一の弁護士として、大連の弁護士が政治に参加する道を拓いた。こうして、無名だった文弁護士が大連市の弁護士の社会的地位を向上させたのである。
文柳山は、決して怠らない。
皆様は、この文章が世に出る頃には、文柳山はすでに日本に旅立ち、日本で1年間の深淵で広範な勉学、研究ならびに経験を積んでいることでありましょう。そして、来年の春には、春風とともに祖国に戻り、さらに該博に溢れ、活発で?剌とした活動をしている文柳山を見ることができるでしょう。
文弁護士が帰国したら、また、別の人たちが続いて出かける。その人たちが帰国すると、文さんがまた出かける。… 彼らは、国内と国外、現在と未来などに関係なく、もっとたくさんの知識と経験をうることを望んでいる。… 勉学に限界はなく、彼らは、このように一生永遠に学習に努める。
【追記:この翻訳については、法学部矢澤ゼミナールの林湘君さんと大学院法学研究科研究生金聖花さんに、いろいろ教示していただい